ブーゲンビル島 シオミパイヤー と 私

思えば、父と人生について話したことは無かった。
将来についても相談する事も無かった。

今思うと、高校の初め頃にアフリカへ自転車旅行で行きたいと切りだし、自分の目的を持った頃から、じっと見守ってくれていたと思う。
父は店に出入りする問屋のセールスが、堺の輸出業者と親しいと言う事で、スポーツ自転車を頼んで買ってくれた。
父の感覚では最新式だが、自分が選んできた自転車も受け入れてくれた。

早く自分の目標を実現させたくって、短大の技術系を志望した時、大学だけは行っておけと言ったことだけだ。


結局、文科系の進学クラスでは、理科系の短大は実力不足で通らなかったが、そこでも悪あがきで、努力次第で3年で単位が取れる
と言うだけの理由で大学に行く事になった。

あちこちとテーマをあてがいサイクリングにいそしんだ。
私にとってその頃から、命を掛けた大旅行は始まっていたし、周りはこれまでの事をみて行きそうだと言う体臭を感じていたようだ。。

父は、ボツラボツラと、事あるを見つけて戦争の話を漏らした。



父は中国(満州)旅行中に召集を受けた。
急いで帰国するっ必要があり、九州の港に上陸した時に、持っていた楽器の中まで裂かれて見られたと理不尽さを語り、
入隊までの話もさほど今思えば聞き流したのかもしれない。子供と言うものは親の話を真剣に受け止めないものだ。
何の旅行なのかとか効くことも無く、今ならもっと聞いっとけば良かったと思う。


父の家庭は複雑だったらしい。徳島出身の祖父とは別に、鹿児島出身の人の後に入り連れ子として
鹿児島の籍にり、九州の部隊への入隊となる。


甲種合格の父は、機関銃を数人で運んで組み立て陣地を作る。

弾が水柱を立てる田んぼの中を走り、田んぼの端にある土饅頭に身を潜める

そんな満州から南方に移されて行く中で、一番最初に狙われる機関銃の陣地は生き残る可能性が無いと思っていた。

勿論、そこを嫌だというような世界ではない。
無線技師(通信技師)2名募集の試験があると聞いて、必死に夜間も勉強して合格する事でその役から逃れた。
おそらく、これがうまく行かなかったとしたら、今は無かったし、私もいない。


だからと言って、その後もそんな簡単な物ではない事は、父が書き上げたシオミパイヤを読んで頂ければ分かるとは思います。


私があるように、多くの死んでいった兵隊さんが、もし生きていたら、と、考えると、きっと今の日本と違った多くの人々の世界あったに違いない。


死んでいった兵隊さんには、家庭が有った事や、それだけの数の悲しみがあったことが想像できる。

だけど、父は言葉にしては言わないけど、納得して死んでいく方法も伝えているような気がします。

納得しては死んでいない環境下にあって死んだだけではなく、
生き残ったものが、いつ・何処で、どのようにして死んだかさえ分からない仲間の軍籍名簿に、国民の祝日や記念日を外し、順に勝手な戦死日をあてがい
戦闘死や病死を書き込み、そこいらの石や砂を入れる。

家族は、それを信じて命日に手を合わせている。

その表現はこの場ではしようのない泣き笑いであろう。

いや笑えないのだが、心のよりどころである現実です。


 黒人を先頭にして進んでくる相手も、同じように、日本軍も同じように人種差別的先頭があった。
死臭が漂い、相手の兵隊を生めるときだけ、現場の紳士的な静寂の中で銃声が止まる。

まさに消耗戦、死んでいなくなるまで果てしない撃ちあい、弾が尽きても敵が残した武器で続く。
この本の世界の中に、身を置いて想像して頂きたいと、私は思います。

敵を喰らい、見方を喰らって、己が死んでいく地獄の世界って、果たして本に出来るだろうか??。

どうか、想像を豊かにして、この状態で生きると言う事と、死んでいく、死ななければ収まらない必然性の環境の中で、貴方はどう生きるかを考えていただけたら
父の残した文字はいき続けると思います。


  中島 満の息子として、この環境から戦い生き抜いた父を誇りに思います。


そして、その息子、中島 正満として伝えたいのは、今現在でも世界の何処かで、報道がされないどこかで、知らされない=合法として殺されている事実があります。

大勢の人々が無念さをも伝えられないで消えていっているの事も知って欲しいのです。

人々は伝えられないと、存在さえ無に等しいのです。記録に残らなければ全て無という世界に身を置いている私達であることを知って
その無になる狭間の線を越す時には、自覚して渡って欲しいと思います。

そこから生きる残る方法が見えてくるからです。