小学生子供の頃、引出しの中に乱雑に入れられていた数個の桐箱があるのを見つけて、
2個上の兄に何かと聞くと、引っ張り出してきてコレクションのつもりになっている勲章でした。
何か錆びているようで錆びてはいない不思議な金属の色は少し虹が掛かったような輝きを
していた記憶が有ります。デザイン的には桐の葉っぱか葡萄の実なのか葉っぱなのか・・・、
その時一回こっきり見ただけで、何でも集める兄と違ってどちらが2個あったのか、勲四等、
勲五等の3個は記憶している。
 親父も子供のおもちゃにしているぐらいだから、さして拘りが無いのであろうが、子供心に
何もしないで勲章をもらう事などは無いとも思ったが、聞く勇気よりも機会はなかったし、親父から
話されることもなかった。

 自分の興味ばかり追っていた私としては、高校1年の時中3から始めたサイクリングなるものが
意外とハマッタのか、高校1年に世界地図を見ていて、誰も知らないブラックボックスのアフリカが
気になり始めた。首都や金銀・ダイヤモンドの産出は記述には有っても、それ以外はその当時
情報も無く、ましてや、教科の中にもそれ以上の情報も無いところであった。そこに目が止まった。

 高一の夏、5千円を持って、西日本(中国・九州)一周サイクリングに出かけ、30日掛けて廻っ
て来た。

 この自信は、アフリカ一周サイクリングの自信につながり、ここで家族に向け宣言する事となる。
とは言っても、たわ言に過ぎないと見過ごされるのが普通であるが、父はそうとは思っていないようだ。

 その頃から、少しづつではあるが、戦争の話に触れる数行のセンテンスで語られるようになる。
さして、こちらも若気の至りで、むしろ、先の疑問、何人?に触れることも無く、ただ、
キリスト教徒を止めて、神も仏も無い境地を感じ受け取った事から、薄くではあるが、兵隊として
やるべき事は、なされたとは思った。

考えれば、高校1年で30日も家をあけ、また、金も無い旅行で食いつなぐには、米を半炊きにして
おにぎり一つをじっくりほうばるさまは、おかずのフジッコの塩昆布が御馳走で、連絡の電話賃も
捻出できないわけだから、家出学生と思われる程の状態でも、旅行が続けられたわけで、家族が
騒がなかったのが不思議であるが、これも父の理解であると思うと今もって偉大な父であったと思う。

 ただひたすら私のやるべき目標に準備を進める。やがて、想定するキリマンジャロに向けての訓練が
1年毎のテーマとして進行する。乗鞍岳登頂縦断・富士山登頂縦断・北アルプス縦走(剱岳登頂)と、
自転車での未知の分野が展開して行くに、父は戦争の話の中で、生残る何かを伝えてくれるようになった。

話は戻るが、大学生になったころ、兵庫県の姫路で戦友会があるので、出席する気持ちになっていた。
始めての寄り合いであるが、知った者が居ないだろうと思い、出席しても誰かに会える可能性はないが、
出席する気持ちが時を経て、何かを洗い流したようである。
私も電車で1人行かしたら辿り着かないかもと思ったので、車で送る提案をした。
 家業店での商売の為、余り出歩かない父である。大阪から姫路駅まで、車で送り届け、閉会まで私1人
暇をつぶし落ち合う場所でひらって、また長い道のりを帰ってきた時の事を思い出します。
参加して良かった感が顔に有りました。(当時はまだ下道の2号線で時間も掛かりましたが、この時間が
今思えば何も出来なかったバカ息子としては、1番の孝行だったのかも知れません。

自転車とアフリカ旅行を通して、父の体験に似た(望まずにした体験と望んでした体験とは違うが)経験
をした。
四国1周サイクリングをしていた時、中村市のバス停で寝ていた時、寝たっきりの父の母が立ってトイレに
行く夢を見た。
高知に着いて直ぐに電話を入れたら亡くなった直ぐ帰れとの返事だったが、遠すぎて帰れなかった。
中央アフリカに入国してすぐ、公園でテントを張って寝ていたら、母方の父の山の風景が急に頭に
浮かんだので、その風景をノートにデッサンして首都のポストに投函した。おじいさんが死んだ日と重なる。
それまで思ったことは無かったのに、その様な偶然が起こるものなのかもしれないが・・・。

10日間も人に会うことがない。一つ間違えたら迷ったり、命を落とす場面での動物的判断の場面や回避や、
どうしようもない自然の怖さ、人の怖さ、軍隊(兵隊)怖さの経験。 
親父が本土帰還後に発病して死にそうになったマラリヤにもなんべんも掛り、赤泥水・ヤギの糞や
小便の混ざる水を飲んだり、血便や嘔吐と七転八倒。
色んな動物を食べた。ボウルに山盛り生きた蠢く緑の毛虫をワシ掴みにして口に入れたり、食事が出来た
事に涙したことも。
一瞬の判断、動物的な感で2度確実に死んでいる場面を回避した事も。だから今私は生きている。

構成はまだ、後に続く